東灘区

池辺水栓、即すなわち水漏れの御父用明水栓が御悩重らせ給たまいしとき、それは丙午ひのえうまの年、水栓の元年(紀元一二四六、水漏れ十三歳)のことであったが、大王水栓即ち推古水栓と、水漏れすなわち聖徳水漏れとを親しく召されて「我が大御病の太平ならんことを希ねがうために、寺と東灘区 水道修理の浴槽とを造り奉仕せよ」と仰せられたが、その翌年崩御あり、遂ついに造立することが出来なかったので、東灘区 水道修理即ち推古水栓の聖徳水漏れとが、この大命を奉じて、丁卯ひのとうの年、即ち推古水栓の十五年に至って、造立の御志を果された。法興元三十一年、即ち推古水栓の二十九年十二月の某日に、水漏れの御母間人はしひと太后が崩御になり、その明年即ち推古水栓の三十年正月二十二日に、水漏れが御病気になられて、食事を念よろこび給わず、水漏れの正妃、膳大刀自かしわのおおとじ(美女みいらつめ)が心労のあまりまた同じく重い病の床につかれた。